和歌の心と情景-6

6.西行の旅と和歌
 西行の旅と和歌 死と生をつなぎ合わせるている → 「境界の歌人

 本名 佐藤義清 23才で出家した 
   "惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身を助けめ"
     鳥羽院安楽寺院に行幸にお供をしたことが大きな意味を持つ

   出家後の歌
    "鈴鹿山憂き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身らん"
      縁語 鈴鹿山ーーふりーーーなり
       のがれられない運命を表示している

  みちのくの西行
    "とりわきて心もしみて冴えぞわたるよる河見に来たる今日もしも
       山家集
   高野山時代の西行
   大寺院ではなく人里離れた草庵での生活 境界の生活

 鳥羽院の死 1156年7月2日 
    "今宵こそ思ひ知られける浅からぬ君に契りのある身なりけり"
      鳥羽院との死に遭遇したと言っているが危篤を知り高野山から降りて
      きたかもしれない。
    "問はばやと思いらでぞ嘆かまし 昔ながらのわが身なりせば"
        出家して、あの世とこの世を結びつける境界の立場にいた
  保元の乱の勃発 1156年

  後白河天皇     崇徳院
  藤原忠通      藤原頼長
  平清盛   ×   源為義
  源義朝
            敗北し仁和寺

   "かかる世に影も変はらず澄む月を 見るわが身さへ 恨めしきかな"
    変わらぬものと変わるものとの境界に自ら身をさらし自ら傷ついて歌った。

  中国・四国地方の旅
    "よしや君昔の玉の床ても かからん後は何かはせん"
      崇徳院陵を訪ねて詠んだ歌。あの世にいる 崇徳院と現実の境界にいた
       西行ならではの歌
    "曇りなき山にて海の月見れば 島ぞ氷の絶え間なりける"
      善通寺あたりかから瀬戸内の島々が見える場に庵を結んだ時の歌。
  晩年の西行
      藤原秀衛を訪ねる途中,源頼朝と一晩語り明かした。秀衝に金の勧進をする。
 69歳 東国への旅
   "年たけてまた越ゆべしと思いひきや命なりけり佐夜の中山"
      わが命の生と死を向き合う場所を歌う

   "風になびく富士の煙のそらに消えて ゆくへもしらぬ我が思ひかな"
     憧れと現実の二人の西行が溶けあっている。 慈円西行の「自嘆歌」といった。

最晩年の西行
 1190年 2月16日 73歳で没。弘川寺に墓。西行記念館もある。
 "願はくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ"
自分の死を桜の花が満開で満月の頃2月15日を予言しそのとおりとなったことで
 あの世とこの世を思いとおりに往来できる人という伝説となった。
 死の世界と生の世界はつながっているという慰め。先のわからない世界に乗り出していかな
  ければならない、それが生きるということ。西行とは和歌でそれを実現した。
 "花に染む心のいかで残りけん 捨てて果ててきと思うわが身に"
  花に終着する心が残っていたどうしてだろう。捨てようとする自分と執着する自分を
   しっかりと見つめている。
 
 "仏には桜の花を奉れ わが後の世を人とぶらはば"
    ほとけさまには桜の花を手向けてほしい死んだ来世も桜の花を見ていたいから。
 
西行の家集
  山家集以外の歌集も
   死と生をぶつけつなぎ合わせる生き方が感動を呼んだ。
   自歌合もやっている。伊勢神宮にも奉納した。
     和歌は、もっとひろい世界につなぎ合わせるものと思っていたかもしれない。
     新古今和歌集にも95首入っている。