歴史と人間の要点メモ

1,歴史と人間の関わり
  ・ヘロドドス ハリカルナッソス人 著書 {歴史} 戦争の記述 見聞きしたエピソードが主
  ・トッキディデズ  アテナイ人 「戦史」 アテナイトとスパルチの戦争を実証的に表した。
  ・コルネリウス ローマの政治家 「ゲルマー二」「年代記
  日本 「古事記稗田阿礼が暗誦し、太安万呂 が書き編集。 文学作品に近い 
    「日本書紀」漢文の編年体。中国の史記の影響が濃い。国家事業。政治的な配慮がある。
     続日本紀 菅原真道 文武天皇から桓武天皇まで95年間
     栄華物語 、大鏡 藤原道長の歴史
     扶桑略記 神武天皇から堀河天皇と仏教史を含む 編年体
 2.司馬遷 
   BC145,135 〜BS87,86 前漢時代 武帝に仕える。
   「史記」 黄帝武帝 まで 本紀 時系列的な記録、 
                 列伝 人々の伝記 宰相から周辺民族まで幅広い
        紀伝体 人間を中心とした歴史が入ることで精度とふくらみを持たせた
            
     日本では 教養書として奈良時代から平安にいたるまで知識層の必読本であった。    
     
 3.聖徳太子
   厩戸皇子 (579〜623) のことを後世になってそう呼んだ。
   功績 ・17か条の憲法 心得、仏教や儒教の影響がある
      ・遣隋使の派遣(600) 、小野妹子(607)
・冠位十二階の制度 氏姓によらない官位を定めた
      ・四天王寺の建立 仁王門=五重塔=金堂=講堂 の四天王寺様式
      ・三経義 お経の注釈書
    歴史書の記録では、日本書紀のみ古事記にはない。
  後世への影響  
    源頼朝と政子が四天王寺を参詣、源実朝 御成敗式目51ヶ条'(17の3倍)
聖徳太子信仰 六角堂 親鸞

 4.源頼朝北条政子
   吾妻鏡 武家政権の歴史書 以仁王の令旨(1180)から宗尊親王が京都に戻った時(1266)
   までを記述
政権の成り立ちから鎌倉政権の成立と運営を記述しており信頼性の高い記録。
    鎌倉政権
      所領安堵を政権が保証し御家人は幕府の諸役を勤めることにより横のつながりがあった。
      鶴岡八幡宮
      執権体制 北条泰時評定衆の合議により政権を運営。政子の役割も大きかった。
 
5.交流と人間
   モンゴルの襲来 1274 文永の役、 1281 弘安の役
       襲来したときの慰霊  時宗 円覚寺を建立。  
   モンゴル帝国 1260年 「元」クビライ 
   その後 日宋貿易が盛んになる。 宋銭の大量輸入、東アジア沿岸の港湾貿易が興る。

  朝鮮半島の状況
    
    高麗  元の属国、朱子学、木綿種、火薬、
 
6.ルターとクラーナハ   
    クラーナ  宗教改革 宗教改革の伝達  ルターの思想を図版化した。
           著書 「律法と福音」 右側 生きること , 左側 死、カトリック
    ルター 「信仰によってのみ人は救われる」。ことをわかり易く伝える。
         PR媒体として 木版画ビラ 「キリストの受難と反キリストの受難」
                      ヴァイマルの「聖ペトロ・パウロの教会祭壇図」


 7. 天正遣欧使節
   1543 ヨーロッパ人 初来日 種子島 ポルトガル
   1549 フランシスコ・ザビエル 鹿児島上陸、イエズス会(カトリック)の宣教師
   1579 イタリア人 ヴァリアーノ 巡察師 信長と面会し布教の許可を得る
                    長崎にて「天正遣欧使節」の発案 14才の四人の男の子
   1582 長崎を出航 ----マカオ----ゴア------1584 8月 リスボン着、10月スペイン国王に謁見
   1584 7月 ローマ ヴレゴリウス13世に公式謁見。 
   1586 リスボン 出航 ----- 1588 ゴア ----1590 長崎帰還 
   1591 秀吉に謁見した。
    その後 キリスト教の弾圧のなかで、4人は忘れ去れてしまう。
     明治6年 岩倉具視視察団によりヴェネチアの文書館で記録が発見される。
         同時に、伊達政宗が派遣した「慶長遣欧使節の記録」も見つかる。
     日本側には記録はまったくない。

  8、梅津政景 
     秋田藩の家老。実務能力を認められて家老となり、藩の経営に功績を残した。
      院内銀山の経営、 鉱山町は米の大消費地。一万人の人口。
     ・「梅津政景日記」を残す。
       銀山奉行となった1612年から21年間の記録。
     ・「岩堰用水」の開発
        河岸段丘の丘に用水を通して新田開発を行った。
     古い武士と新しい武士との両面を持つ。

  9. 近代社会と人間
     人間と神が直接向き合う→宗教革命、人文主義
      人間にとって真実とは何か? → 合理的で科学的な探求→新しい人間観を作り出した。
    大航海時代
     莫大な富がヨーロッパに流入し社会が変わった。
     商業による富の蓄積→社会的な地位を持つ。
     教育によって人格が形成された。 →上品、洗練、趣味  中産階級が重要な地位を持つ、
      知識と文化を担う人々が成長するるともに、社会の格差が生じる。→社会主義の出現。
      バラバラな個人の団結を訴える社会主義ははたして成功したか疑問。

  
  10.ブルネルとオスマン
ブルネル 1806〜1859 イギリス 土木技師 
     civil engineer インフラを作るエンジニア 、父も土木技師だった。
      父の業績 テムズ・トンネル を父子で完成させた。
      ブルネルの業績  テムズ・トンネル、クリプトン橋、ボックストンネル
                客船 グレトーイースタン号、グレイトブリテン
     オスマン  フランス人、セーヌ県の知事、ナポレオン三世の命でパリ大改造を行う。
       パリの改造の要点 公園の設置、上下水道、幅120mの道路、建物の高さの制限
        19世紀のパリの芸術家が好む景観がこのときにできた。

   11.福澤諭吉 1825〜
     中津藩の下級武士の家に生まれる。
      幕府の使節団の一員としてヨーロッパ、アメリ東海岸を訪問した。
       帰国後、教育の必要性から「慶応義塾」を創立。
      時事新報を発刊し文筆活動。「学問のすすめ
        ・精神的に独立できる人間形成をめざす。 一身独立して一国独立する。
        ・学ぶと学ばざることによって社会的地位の差が生じる。
      旧藩体制の重圧て身分制度への嫌悪がその思想の根底にある。
       状況思想家ともいわれるが、最後の「終身要領」を執筆。 個人の独立、相互尊重
       国家間も相互の尊重が重要と説く。
 
  12.山川健次郎  1854〜1931
会津戦争で家族全員が籠城。 兄は家老色で城内で死去。 15才で白虎隊の隊士
     17歳 斗南藩学校入学 18才 米国留学 22才帰国 1879年 東京大学理学部教授
     1893年 東京大学総長 40才。
      会津藩士の慰霊事業を熱心に推進。
        墓地の整備、碑の設立。 「会津戊辰戦史」「京都守護職始末」などの記録を残す。

  13.アマル・アタテュラク
     トルコ共和国を作った人物。 
     業績 スルタン、カリフの廃止。アラビア文字のローマ字化、
        脱イスラム化、→ベール、トルコ帽の廃止。
        工業化、国家資本主義の推進。
     トルコ共和国の成立まで
      第一次世界大戦で敗戦国なり連合国による分割があったことに危機間を覚え、オスマン帝国 
      の廃止のため革命運動を起こす。 トルコ民族主義、教育に力を注ぐ。

  14.マハトーマ・ガンジー  1869〜1948
5つの活動期間に区切られる
     1 商人カーストに生まれる。父は地方の宰相。
     2 1883〜1893 南アフリカで移民し弁護士活動を行う。
     3 1893〜1914 南アフリカで人種差別を経験しインド移民の支援活動を行う。
     4 1915〜1948 インドに帰国。市民不服従運動を支援。メディアを利用して世論に訴える。
     5 1947 インド独立と同時にパキスタンとの分裂があった。
    
  業績
 ・ 非暴力的な市民運動のシンボルとなった。 キング牧師にも精神が受け継がれた。
      ・インド独立の父。 国民の父としても近年評価されている。
      ・批判と再評価 共産主義的な動きへの反動。
      ・ヒンドゥー右翼によりガンジーの評価は落とされたが。
      ・グローバル化と経済発展するインドでガンジーの評価は復活している。
                                                   以上

県立大学特別受講 比較文明論レポート

今回の講義は最初はかなり学術的な話になるのではないかと思っていたが、実際は
 今の現代の日本社会や世界情勢の理解にとても役立つ内容であったことがとても嬉しく
 思いました。 特に後進国と言われているアフリカの一部の国々や少数民族について
 新たな理解ができたことがあります。
  全体を通して先生の主張も一貫しており人間の平等、文化の差異を認めるという生き方がこれからも現代社会においてとても重要な事のように思いました。
 採集狩猟民族は、自然破壊をしない知恵と我々の知らない生物に対する知恵や持っており、自然に対する畏れと絶対的な信頼をよりどころに生活し、結果としての平等を実現
しているという捉え方には感動しました。 現代では機会が平等であれば後は本人次第という考えが主流であり、努力しないと結果が出ない、だから頑張れという社会になっていると思う。 そこに世代間の平等意識のズレが加わり問題を複雑化していると思う。
 牧畜民は家畜という財産を元に財の平等の知恵が婚姻をきっかけに実現されているという実態がわかり、いままでは結納金としか思わなかったものが労働力と家畜のバランスを
とるという形で実現されていることに驚いた。
 また農耕民はこれは私たちの身に染みている文化であるのでとても身近な生活習慣の中に息づいていて身につまされる事が多かった。 今は農耕による財産や富の蓄積だけでは
なく商業を通じた財の蓄積や資源国と資源のない国、工業力のある国と発展途上国の存在など複雑な要素がからんでの国の間や国内での平等が崩れている。先進国では社会保障費用に増大に耐えられなくなっており、発展途上国ではなお平等に実現が困難になっている。
 一方、食料を得るという点から主食の米の確保は重要な問題である。 新潟県に住んで
いると米というのは足りて当たり前という認識になっているが、いずれ世界的には食料の確保という問題が大きな課題になってくると思っている。 この時までに自国の農業で主食を確保して置くということは国の安全保障からも重要な問題であり、先生の米はどんなことがあろうと補助金を出しても自給を確保すべきという主張には我々戦後の団塊世代にはわかる話であるが、学生達も理解したと思うで十分教育効果のある話であった。
 最後のイスラム教の講義は、我々とは違う考え方ではあるが、人間の平等と弱さを認めるという考えには共感するものがあって有意義な授業であった。 日本では宗教が生活を規律することが生活習慣としてはあるが、合理的な考えで規律するイスラム教がアラブ世界を越えて広まっているのも、西欧キリスト教的な考えが行き詰まりをし、仏教は政治や生活まで影響の無い葬式仏教となっているなかで、新鮮な響きを感じた。 これを機会に放送大学の授業にもイスラム文化に関する授業があるので25年度は受講してみよう思った。 情報化社会の中で一部のマスコミやインターネットによる上滑りな情報が氾濫しているが、正しく情報をとらえ自分の考えで咀嚼して行動することがより必要となる時にタイムリーに幅広い勉学の機会を与えていただいた先生の講義に感謝し、来期もまた文明への深い洞察を指導していただけることを期待します。 ありがとうございました。

日本文学概論 第三回 三、藤原公任 傑出したアンソロジスト

三、藤原公任 傑出したアンソロジスト
  一、公任の略歴と著作
 父は藤原頼道、四条大納言、道長全盛で官位滞った
一条天皇に仕えた。
  著書 「和漢朗詠集」  上下二巻からなる選集
  上巻 四季順に漢詩と和歌を並べて配置した。
   漢詩白居易が六割、
   文学を志す人は「和漢朗詠集」の名句、名歌を暗記した。
  影響 「感詠一貫」 佐藤元長 著 
森鴎外が漢学を学んだ
二、公任の歌論書
新撰髄脳」 
 和歌の構造と形式、すぐれた和歌は「心と姿」
 簡潔・明晰で論理性のある文章。
 少しの字余は許容されること、「心深く姿清げに」が歌の理想。

三、有職故実の書として「北山抄」を纏めている。
                         以上
  

日本文学概論 第五回 藤原定家 本歌取り文化圏の成立

五、藤原定家 本歌取り文化圏の成立 文学史上最高の批評家
一、業績
 歌人 「新古今和歌集」の選者、「新勅撰和歌集」の単独選者
自選集「拾遺愚草」
歌学者 「近代秀歌」、「詠歌之大概」、「毎月抄」 有心体
物語作者 「松浦宮物語」 万葉集の風情があると「無名草子」に批評される
    「無名草子」を詠むこと。
日本文学を窯変させた。
 源氏物語の本文校訂 「青表紙本」
 小倉百人一首 
二、本歌取り文化圏の成立
過去の歌の世界を何層も重ねる。
 例
 "大空は梅の匂ひに霞みつつ 曇りも果てぬ春の夜の月
  ①大江千里の歌
  「照りもせず曇りも果てぬ春の夜の 朧月夜に如くものぞなき」
 ②漢詩「明らかならず暗からず朧たる月」
源氏物語 花宴巻 朧月夜の君が千里の歌を口ずさむ
        四層の文学空間を構成している。 
本歌取りという新システムが広く普及できて和歌の存在感を増した。
 夢の浮橋の歌 新古今和歌集 にも入る。
 "春の夜の夢の浮橋途絶えして 峰に別るる横雲の空" 定家
三、小倉百人一首の文化的意義
 暗唱に適し、初心者たちの手本となる歌を一人一首百首集めたところ。
  定家の後継者
   正徹 「正徹物語」 三島由紀夫短編「世々に残さん」
 

日本文学概論 第六回 兼好と頓阿 散文と和歌の再構築

六、兼好と頓阿 散文と和歌の再構築
 一、文学再構築
定家 文学のシステムを作った 本歌取り小倉百人一首
頓阿 このシステムを補強・修正しながら「誰でも詠める和歌の詠み方」を創案   した。
兼好 「誰でも書ける散文の書き方」を創出した。

二、兼好の散文
徒然草の画期性 
① さまざまな話題や内容を転換しながら短いサイクルで書き連ねる文学形態を確  立した。
② 書かれている内容に応じて文体も漢文調,和文など多様である.。
③ 真摯なもの、ユーモラスなもの、哀感に満ちたものなど表現の幅が大きい。
 後世の人は簡潔でわかりやすい文章を書く方法を手に入れた。
例 佐藤直方 江戸時代前期
「しののめ」 徒然草の抜き書き。 
  人間の心を問題として章を中心に抜粋
脇蘭室 江戸時代後期
「歳蘭漫語」の「見し世の人の記」 

三、歌人・歌学者としての頓阿
 頓阿 俗名 二階堂貞宗  武士の出身
  二条為世を師匠として和歌を学ぶ。
  二条派が断絶したあと、頓阿の子孫が古今の伝統を受け継ぐ。
   頓阿----経賢-----堯尋------堯行 家系は和歌の家柄となる。
  頓阿の歌学
   歌論書 「井蛙抄」、「愚問賢注」
   和歌集 「草庵集」「続草庵集」
    山里は訪はれし庭も跡絶えて 散り敷く花に春風ぞ吹く
    秋の夜は誰待ち恋ひて 大伴の御津の泊りに衣擣つらん
朽ち残る蘆間の小舟いつまでか 障るに託つ契りなりなん
今は世に亡しとも聞かば思い知れ これを限りに恨みけりとは
思へただ常なき風に誘われし 嘆きの下は言の葉も無し

草庵集の影響力
本居宣長 「草庵集玉箒」注釈書
「草庵和歌集類題」 類型性が必要だった。
近代和歌の自分の心情を詠むという流れでは忘れられた存在と
なっていった。

兼好と頓阿は、相互補完的存在として位置づけられる。
そして散文と和歌の普遍化が近世になって浸透して日本文学を
豊かで開かれたものにした。
以上

日本文学概論 第七回 転換期の文学(1) その継承と変容

七、転換期の文学(1) その継承と変容 一、文学の継承
今川了俊 1326〜1414 武将であり歌人
冷泉為秀に和歌を学ぶ
「了俊弁要抄」 歌道教訓書
「了俊歌学書」、「落書露顕」  兼好の晩年の事が書いてある
正徹 1381〜1459 歌人
歌論書「正徹物語」 定家に心酔していた。
 弟子は 心敬と東常縁 1401 〜1484
この心敬から連歌、常縁から和歌を学んだのが宗祇
古今伝授の系譜
       定家--為家--為世--頓阿--経賢--堯尋--堯孝--東常縁---宗祇---
       -----三条西実隆--三条西公条----実枝---細川幽斎----松永貞徳----北村季吟
|---宮智仁親王
宗祇 1421〜1502
一条兼良から伊勢や源氏などの古典や有職故実を学ぶ
 「雨夜談笑」 源氏物語注釈書
三条西実隆 1455〜1537
歌集 「雪玉集」、「細流抄」源氏物語注釈書
三条西公条 1487〜1563 「明星抄」源氏物語注釈書
三条実枝  1511〜1579 「山下水」源氏物語注釈書

二、文学者たちの変容
茶道、華道、香道、能などの芸能にも文学が取り入れられた。
琳派の美術にも王朝物語の一部を取り込んだ

細川幽斎 1534〜1610 武家歌人  
家集「衆妙集」、紀行文「九州道の記」、
伊勢物語闋疑集」伊勢物語注釈書
中院通勝
「眠江入楚」 源氏物語 注釈書
三、中世から近世へ
松永貞徳 1571〜1653
仕官せず古典文学を庶民に広げる役割を果たした。
 「戴恩録」 
北村季吟 1624〜1705  66歳になって江戸に出て幕府に仕官をした。
         老中の柳沢吉保と親密な関係となり六義園を造営させ、和歌の
         理想を実現した。政治と文学を繋げた役割をはたす。
       「源氏物語湖月抄」
「増山井」 俳諧の季題解説書 有職故実にも通じていた。
文学が大きく変る時 
文学の担い手が貴族階級から武士や町人まで広がった。
以上