日本文学概論 第二回 紀貫之 文化基板としての和歌と散文

二、紀貫之 文化基板としての和歌と散文 一二、紀貫之とその時代
醍醐天皇の御世
 紀貫之 868〜945  
日本初の勅撰和歌集古今和歌集」の編者。 905年成立 
  二、歌人としての紀貫之
     古今和歌集 の編集者であり和歌の作者、
     仮名序 、1〜6j巻 四季歌 春上、春下、夏、秋上、秋下、冬
         賛歌、離別歌、羈旅歌、物名
         11〜15巻 恋歌
         哀傷歌、雑歌上下、雑体、大歌所御歌 合計 二十巻 
         和歌は千百首  暗唱できる撰歌集
三、二つの仮名序
     古今和歌集の仮名序 万葉集以来の和歌の歴史が系統立てて書いてある。
         六人の歌人 僧正遍昭在原業平、文屋康英、貴賤法師、小野小町、               大伴黒主
本文の最初の部分
 やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける
       世の中にある人事 業しげきものなれば
       心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり
       花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば
       生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける
       力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ
       男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり
大堰川行幸和歌の序文」
 醍醐天皇の延喜七年(九〇七)九月十日、宇多法皇大堰川に御行の時
随行紀貫之凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)ら六人の歌人
 勅題に応じて九首ずつ(躬恒だけ一八首)の和歌を詠進したものに、
  貫之が書いた約五百字の仮名の序文が付いていて現存するのは序文のみ
       
     四、多面的な文学者
       土佐日記の画期性
        平安期や中世の和文作品への影響は少ない。
        イベントを書いたものとすると「紫式部日記」に近い。
   散文で、直接自分のことを書く」という大枠を作ったという意義
和歌も交えている旅日記というスタイルを確立した。
土佐日記の残響
 芭蕉の「笈の小文」 紀貫之をまっさきにあげている。
 北村季吟 俳諧書 「増山井」季語の出典の引用に使われた
注釈書「土佐日記抄」を著わす。
散文を書くという行為そのものへの自覚的意識を確立した。
新撰和歌集」 三百六十首、内 二百八十首を古今和歌集から採択
真名序も書いた。
和文と漢文、そして和歌にも通じたオールラウンドな表現者であった。
以上