和歌の心と情景-4

4.王朝和歌と歌合わせ

 平安時代から鎌倉時代までが最盛期 二首の歌の勝ち負けを決める競技
 なぜこのような事をやったのか?
1.高陽院殿七番歌合
  1094年、主催 藤原師(もろ)実(ざね)、場所 高陽院
  (院政) ( 道長の孫)   (大邸宅)
  歌合は空間芸術 衣装、丁度、音楽
    左方 歌人は女房 筑前、周防内侍
    右方 歌人は男性
    判者 藤原経信 
   勝負
    桜二番
      左方 筑前 "紅のうす花桜にほはずは みな白雲と見てやすぎしま "
         紅の山桜を詠んでいるのが珍しい
     右方 大江匡房 "白雲と見ゆるにしるしみ 吉野の山の桜盛りかも"
       歌がらの大きな歌


   判司 左方 とおくの山の桜だとわかるようにすべき、表現不十分
      右方 特に難点もない  よって「持」すなわち引き分けとした。
   判者の判定は正しいか
      筑前は抗議した。「詞花和歌集」に入れられた。
  「みやびな文化的な営為」で師実の文化的な権威と政治的な権威を高めることに
   なった。

 2.六百番歌合
   1193〜1194、主催 藤原良経 、場所 自邸   師実の五代目
   イベント性より和歌の出来映えを重視
   出題-出詠-結番-披講・評定-加判
   判者 藤原俊成
   作品の例
    題 枯野
     左方 女房(隠名 良経のこと)
   "見し秋に何を残さん草の原 ひとつにかわる野辺のけしき" 
     右方 隆信 "霜枯の野辺のあわれを見ぬ人や 秋の色には心とめけむ "
    判司 草の原は 源氏を読んでいれば優美だと思うのが当然である。
       {源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也} と言った。
      おほろ月夜の君の歌
       "憂き身世にやがて消えなば尋ねても 草の原をば問はじとや思う"
    冬枯の野原は恋しい人を捜し求めて偲ぶという心情が籠もっている。
        身にしみるぼとの優美さがある。これを艶という。

  歌合わせとは 微妙な違いが追求される
    しかも判者は高い見識をもつ批評基準をもとに判定した。
   1.は王朝の雅な行事、遊宴
   2.は文学としての和歌が主役
  六百番歌合わせの歌人
   新風歌人 御子左家系
   藤原良経、有家、定家、家隆、慈円、寂連法師
   旧風歌人 六条家
  藤原家房、経家、隆信、季経、兼宗、顕昭法師

     家の誇りをかけたつばぜりあい、統括して政治的な世界での地位を高めようとした。

 もう一例  題「祈る恋」
   左方  
     定家 "年も経ぬ祈る契りは初瀬山 尾上の鐘のよその夕暮れ"
  右方
     家隆 "朽ちはつる袖のためしとなりねとや 人を浮田の杜のしめ縄"
   現代訳  
     左方
    女の気持ちの歌、あの人と結ばれるようにと初瀬山の観音様に誓ったが結局結ばれ
    ないままとなってしまった。
     あなたは、鐘の鳴る夕暮れになると別の女のところに行っていまうのですね。
      {よその夕暮れ}という圧縮した表現、情念の迷路というべき複雑な表現

    右方
       古い神社に恋の成就を祈ったが、朽ち果てた袖のようななってしまった
       しめ縄のように祈った恋は成就していない。


     判定 左方の勝ちとした。 理由は、朽ち果てた袖のようなしめ縄とは神社に
        対しておそれ多い。
        祈るという表現が十分表現されていないということが真意であろう。
        題に対して十分な表現があったかということが歌合わせでは重要な要素となる。
        定家の歌は新古今に収録された。
  なぜ、歌合わせは行われたか。
      競うということは、誰かにそれを捧げるとうことで主催者の権威を高めると
      いう政治的な意図があって行われたとも言える。