和歌の心と情景-9

9.歌人としての長明と兼好
 「扶桑隠逸伝」の挿絵 
   鴨長明  方丈の庵に座る、板葺きの屋根、琵琶と琴と本の描写。
吉田兼好   門や塀のある家、読書している姿
          徒然草13段 ひとり灯火のもとに文を広げて、見ぬ人を友とするぞ 
          こよなう慰むわざなる。 のイメージ
 1.鴨長明の人生と和歌
   略年表
    1155年 誕生 下鴨神社の正禰宣の次男として誕生
   1172年 父 死去
      "春しあれはば 今年も花は咲きにけり 散るを惜しみし人はいづらは"
       季節はめぐっても死んだ人は戻ってこない。
      20代から30代は戦乱の時期であった
   1201年 和歌所の寄人となり、新古今和歌集の編集に精勤した。
        その後,父の後を継いで神官になれなかったことを悲観して出家した。
       "見ればまづ いとど涙ぞ 諸葛いかに契りて懸け離れけん"
   1211年 鎌倉で実朝と会う。
       "草も木も靡きし秋の露消えて 空しき苔を 掃ふ山風"
          あれぼど靡いていた頼朝の墓には今は秋風が吹きわたるだけである。
         人間の運命の虚しさと無常感が出ている。
    1212年 方丈記を書き上げる。
    1216年 死去
        VTR  ただすのやしろ に庵が復元されている。
     鴨長明
       「瀬見の小川」のエピソード
          "石川や瀬見の小川の清ければ 月も流れを たづねてぞすむ"
         歌合で、瀬見の小川は鴨川のことと披露し名誉挽回を図った。
     「鴨長明集」に収録された歌から
       "世は捨てつ 身は無きものになし果てつ 何を恨むる誰が 嘆きぞも"
        出家して捨てた身なのに、いったい誰を恨んでいるのか、誰が嘆くというのか         と人生迷っている歌。
       "憂身をばいかにせんとて惜しむぞと 人に替はりて心をぞ問ふ"
          こんなつらい人生をどうして惜しんでいるのか人に替わって自分で自分に問          いかけてみる。しかしどうしてよいかわからない。
             新古今和歌集に収録された歌
        "眺むれば 千々に物思ふ月に またわが身一つの 峰の松風"
          小倉百人一首の大江の千里の歌の本歌取り
        "夜もすがら独り深山の真木の葉に 曇るも澄める有明の月"
            深山は深い山と見ると掛言葉。 霞んで見えたのは私の涙のせいであった。

 2.吉田兼好
  略年譜
   1283年頃  誕生。(記録なし) 父、卜部兼顕(アキカネ)は宮廷神禊官僚として朝廷に仕えた、
    1301年 後二条天皇の蔵人
    1352年 死去。
        同時代の記録にもほとんど出てこない。
       和歌四天王の一人  頓阿、慶運、淨弁、兼好   二条為世門下の歌人
       野々口立圃の掛け軸に描かれた姿。
         墨染の衣ではない、頭巾をかぶっている。 僧侶ではなく文人風。
      "すめば又憂世なりけりよそながら おもいしままの山里かな"
    世俗から離れて山里に暮らしたらどんなによいかと思い実際に住んでみたけどここもやっぱり浮き世と同じだな。"
    立圃の俳句
      "室の戸はなど世ざかりにさくら花"
        庵の戸口から外を見ると今を盛りに桜花が咲いている、どうして私は人生の盛りに出家したのだろうか。
      兼好の心の故郷はどこか
      "世の中の 秋田刈るまでなりぬれば 露もわが身も 置きどころなし"
        自分の置きどころが見つからない。歌人としては自分を見いだせなかった。
        徒然草を書いたことによって、自分の居場所を見いだしたと思う。
         心の故郷は、書物の中であった。書物をかくことで自分の存在の意義を発見した。
   兼好法師
     林羅山 「野槌」徒然草の注釈書 このなかで勅撰集入集歌を取り上げた。
       前田家にあった自筆本をもとに「兼好法師集」が1664年出版される。
       "帰り来ぬ 別れをさても 嘆くかな 西にと かつは 祈るものから"
         人が死ぬと極楽往生を願うものの、死別はほんとに悲しい。ここに生きる自分がいとおしい。
      長明 歌人としての存在感が大きい。
      兼好 歌人であることによって文学を切り開いた。
 以上