和歌の心と情景-10

10.南北朝時代の和歌 
   和歌史のピーク
  ?万葉調 ますらおぶり
  ?古今調 たおやめぶり
  ?新古今調 象徴的・文芸的
  ?玉葉・風雅調 叙景歌
 
  両統迭立
                93後伏見
  (北朝) 89後深草--92伏見 --95花園
     京極家京極為兼  
      88後嵯峨

  (南朝) 90亀山----91後宇多--94後二条
               96後醍醐
    二条家 二条為世

後深草院二条とはずがたり」を書いた
 
京極為兼の年譜
 1254 誕生
 1280 後の伏見天皇に出仕
    後に永福門院も和歌の弟子となる
 1298 佐渡に流刑
 1303 帰郷
 1312 「玉葉和歌集」を奉覧、翌年に完成
 1315 土佐に配流、その後安芸、和泉に移る
 1332 河内で死去
京極為兼の和歌

 "梅の花 紅にほふ夕暮れに 柳なびきて 春雨ぞ降る"
   万葉集大伴家持本歌取り 叙景歌である
"山風は垣穂の竹に吹き捨てて 嶺の松より また響くなり"
  

伏見天皇略年譜
 1265 後深草天皇の皇子として誕生
 1288 天皇に即位
 1298 後伏見天皇に譲位し院政を行う
 1308 花園天皇の即位により再び院政
 1312 玉葉和歌集 編集
 1317 奉御

 伏見天皇の和歌
 "惜しむべく悲しむべきは世の中に 過ぎてまた来ぬ" 玉葉和歌集
 "雪も降り水も凍るや天地の寒きを受くる心なるらん"
人生のつらい出来事も受け止めようという心の動きが感じられる。
 "夕暮れの雲飛び乱れ 荒れて吹く嵐のうちに 時雨をぞ聞く"
おおらかで大胆な歌。
 
永福門院
 1271 誕生
 1288 伏見天皇に入内
1316 出家
 1317 伏見天皇崩御
 1318  後醍醐天皇即位 
 1333 鎌倉幕府滅亡
 1388 足利幕府成立
 1342 逝去

   京極為兼が和歌の先生、しかし父親の西園寺実兼の讒言により為兼が流罪
   なったことを恥じて出家した。
  特異な叙景歌
   三島由紀夫の「小説家の休暇」で永福門院の歌を取り上げている。
    "山もとの鳥の声より明けそめて 花もむらむら 色ぞ見え行く"
   "時鳥声も高嶺の横雲に 鳴き捨ててゆく 曙の空"
空漠とした感じ、虚しさと向き合っていた気持ちを感じる。
    折口信夫土岐善麿も永福門院の歌を高く評価した。
    江戸時代 戸田茂垂も評価した


 二条派
  新葉和歌集 準勅撰集
 後醍醐天皇の和歌
 "ここにても雲居の桜咲きにけり ただ仮初めの宿と思うに"
    ここ吉野にも雲居の桜が咲いているが この吉野は仮の住まいと思ったのに
   長くなる運命だったのかと嘆いてるいる。建武の中興の失敗から吉野の逃れた
   後醍醐天皇の歌。
 "音に立てて虫も鳴くなり身一つの憂き世を月にかこつと思えば"
  あの虫も鳴いている、自分ばかりが鳴いているのではないなー
  川田 順「吉野朝の悲歌」 同情の涙

 宗良親王 ムネヨシ 
  新葉和歌集 撰者
  1311 誕生 母は二条為世の娘
        兄は村上天皇
  1330 天台座主
  1337 還俗 越後、信濃などを転戦
  1385 信濃で没
 "思ひきや手も触れざりし梓弓 起き伏し我が身慣れんものとは"
伊勢物語の第83段の在原業平の詠んだ歌を踏まえている。
   思いきや、 とは
    わかりやすい歌、二条派の特徴。
  "数足らぬ嘆きに我はただ帰り詫びたる雁の一行"
二条派は、人の心の優しさと哀しさを詠った。叙情歌。
  京極派は斬新な新しいスタイル
  二条派は伝統を守り、女性的

 抒情歌と叙景歌

 二条派  抒情と叙景との調和させやや抒情に力点をおいている。

 アララギ派----------二条派----------明星派