日本文学概論 第八回 松尾芭蕉  生き方としての文学

八、松尾芭蕉  生き方としての文学
一、文学と人生
勅撰和歌集の終焉 「新続古今和歌集」1439
連歌について
 連歌の形式 -- 付合、五七五 上の句 、別の人が 七七 下の句 --
室町時代 最初の連歌集「菟玖波集」1356 二条良基、救済 準勅撰となる
      「新撰菟玖波集」1495  宗祇と猪苗代兼載が編纂
複数の人間による付合という形式だが内容は和歌的で連続性がある。
俳諧の誕生
 初期の俳諧 滑稽とか卑俗性があったが、これを乗り越えたのが芭蕉

芭蕉の人生と文学
  定住と漂白の交代人生。
辞世の句   "旅にやんで夢は枯野を駆け巡る"
   西行との対比
季節    テーマ 形式
西行  花の盛り   花と月     歌詠み
芭蕉  冬の枯野  人生と文学   詩と散文
芭蕉は、宗匠で散文家で教師
詩と散文の並立、圧縮、新概念の提示をはたした文学者
笈の小文」での開眼
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、
利休が茶における、その貫道するものは一なり。
文学活動が生活中心であり、文学活動が生活を支えるという存在は
日本の中に文学者を許容する文化的な成熟があった。
過去の文学の系譜を強く意識している。
紀氏、長明、阿仏の尼。。
二、芭蕉七部集の世界
1684 「冬の日」 尾張俳人 歌仙五巻
1688 「春の日」 尾張俳人 歌仙三巻 発句 五八句 
1689 「曠野」 歌仙十巻 発句 七三五句
1690 「ひさご」 近江の俳人 歌仙五巻
1692 「猿蓑」  歌仙四巻 発句 三八二句
1994 「炭俵」  歌仙七巻 発句 二五八句
     1698 「続猿蓑」  歌仙五巻 発句五一九句  
三、芭蕉のおける詩と散文
      韻文と散文の関係
和歌は散文で説明できるし、散文は和歌に詠み替えて歌うことも可能
生き方としての「おくのほそ道」
作品の中に自らの人生の真実を解き放つ文学者であった。
 方丈記鴨長明芭蕉もそうであった。
 「おくのほそ道」冒頭
"月日は百代の過客にして、行き交う年ももまた旅人なり。
船の上に生涯を浮かべ、馬の口捕らへて老いを迎ふる者は
 日々旅にして、旅を住処とす。 "

日本文学概論 第九回 上田秋成と大田南畝

九、上田秋成大田南畝
 一、二人の交友
上田秋成 1734〜1809 大阪在住 
太田南畝 1749〜1823  江戸在住 幕臣
 大田南畝の出張の折に、大阪や京都で4回会う。
二人の共通点
 ①韻文と散文の双方に通じていた。
 ②書籍の発行に熱心であった。
 ③幅広い分野の人々と交流した。 
    秋成 煎茶道「清風瑱言」。南畝「浮世絵考証」
二、和文の規範と変遷
伴高谿(ばんこうけい)  国学者 「国文世々の跡」
和文の研究書。 「大井川行幸歌」「春は曙・・」「藤川の記」などの
序文を取り上げている。
平安時代の中古体が良いという文章感を著わしている。
思ったことをぎっしりと詰め込まないで表現するのが良い。
三、上田秋成の文学世界
 怪異小説の原点「雨月物語」。 
 歌文集「藤蔓冊子」 (つづらぶみ)
その第四巻 「十雨言」 四季の雨
春雨物語」 歴史物語、歌論、激動の小説など。 空言で真実を知らせる
という文学館が現れている。
四、太田南畝の文学
 狂歌、洒落本 別名 蜀山人、四方赤良、寝惚先生。
 「四方のあか」古典の典拠を次々に取り出しながらスピード感ある文章。
「鎌倉の海より出でし初鰹 皆武蔵野のはらにこそ入れ」
狂歌百人一首
   秋の田のかりほの庵の歌がるたとりぞこなつて雪は降りつつ
        【本歌】秋の田のかりほの盧の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
                               天智天皇
        【解説】天智天皇と15光孝天皇の取り札を間違えたのです。この二首、            下句は「わかころもてはつゆにぬれつつ」「わかころもてに
            ゆきはふりつつ」と良く似ていて、競技者泣かせ。
他にこのリンクを参照。 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/kyouka100i.htm

以上

日本文学概論 第十回 香川景樹と橘守部  和歌から短歌へ

十、香川景樹と橘守部  和歌から短歌へ
一、江戸時代の後期に変ったこと。
 定家権威も批判されてくる。
 二、香川景樹の世界
   香川景樹 1768〜1843 歌人、歌学者
    著書「新学異見」 本居宣長「新学」への反論書 古今和歌集を評価
万葉語を意識的に使うこと自体が自然な歌の流儀と異なり、人為的な操作
に他ならない。と真淵の万葉集源実朝への賞賛を批判した。
近代短歌の子規などの和歌観と新学は近い関係である。
現代短歌のようにアララギを超えようとする動きと香川景樹の短歌論は
近似関係にある。
著書「土佐日記創建」 土佐日記の注釈書
自選歌集 「桂園一枝」 
 三、橘守部の世界
   橘守部 1781〜1849 独学で国学を修めた。 国学研究者
    歌学書「心の種」和歌の入門書
    注釈書「土佐日記舟の直路」 
       注釈のスタイルが、原文の< >の中に補う形で著わされている。
   橘守部の子孫は、歌人の家柄を形成し、全国の歌人の投稿を集めて
全国的な短歌会を組織した。

以上

日本文化概論 第十一回 転換期の文学(2) 西欧文学との葛藤

十一、転換期の文学(2) 西欧文学との葛藤
一、文学における近代とは何か
 これまでのまとめ
①和歌の伝統が強靱である。
②和歌では師承が非常に重視されていた。
③散文では師弟関係がない
④韻文と散文が複雑に絡み合っている文学者がいる。
⑤コンパクトな形で文学のエッセンスを人々に提供する文学者が出現する。
アンソロジーとしては「和漢朗詠集」「小倉百人一首」、「徒然草」も?
近代文学の生成
正岡子規「歌詠みに与ふる書」万葉集や金塊和歌集を尊重する姿勢を
打ち出した。 
散文は、「小説」が中心となった。
韻文と散文の双方に通達する文学者 鴎外と漱石他に室生犀星佐藤春夫
上田敏 外国詩の翻訳詩集「海潮音
西欧文化流入と日本文学の翻訳
 レオンド・・ロニー(仏) 「詩歌撰葉」 万葉集百人一首、雑歌70編
 チェンバレン(英) 「日本口語文典」、アストン「日本文学史」、
 フローレンツ 日本文学史、ルヴォン「日本文学撰」など。
二、鴎外・漱石をどう捉えるか
森鴎外 1862〜1922 翻訳家、美術評論、批評家としての活動も多い。
啓蒙家の奥に冷徹な知力と高い詩的情熱をもつ文学者。医者でもある。
医師としてドイツに留学しドイツ文学の翻訳も多い。
和歌を愛し観潮桜歌会を主催。
 周辺には 与謝野鉄幹与謝野晶子斉藤茂吉、木下杢太郎
 小説「青年」、乃木希典の殉死を契機に「興津弥五郎右衛門の遺書」

漱石 1867 〜1916  小説の他に文学論や文学評論も残す。
   俳句を愛し、子規の親友でもあった。イギリス留学。
議論対談によって人生観・芸術観を深めるスタイル。
「和、漢、洋」の三層構造
弟子 芥川龍之介内田百輭など
小説「三四郎」 、乃木希典の殉死を契機に「こころ」を書く。
三上田敏をどう捉えるか
  上田敏 1874〜1916 翻訳詩集「海潮音
 イタリア、イギリス、ドイツ、フランスの二十九人の詩人の詩、五十七編を収録
 西欧詩人を日本に紹介した功績は大きい。翻訳は古典文学の語彙を使った。
 影響を受けた詩人は 北原白秋三木露風薄田泣菫(すすぎだきゅうきん)、
 日夏耿之介など。
以上

第十二回 幸田露伴 江戸と東京

十二、幸田露伴 江戸と東京
 一、幸田露伴の人生と文学
   幸田露伴 1867 〜1947
  小説、戯曲、紀行、史伝、研究、考証、評論、随筆など幅広い著作がある
 「評釈芭蕉七部集」文学研究者であった。
   蝸牛庵 明治村に移築保存されている。文明批評もある。
  江戸と東京の変化を見つめてきた人物。
   西鶴の影響を受けた「風流仏」少年時代から俳句に親しむ。
 三、露伴の文学論
韻文に関して 和歌、俳句、漢詩。 五七の自由な組み合わせで定型詩を模索。
散文では 「普通文章論」 実用文書に重点
「文章要論」 散文の執筆心得。個人の文章の模倣はしてはいけない
       と主張。
「日本文章史小観」 時代毎に文体の比較と変遷を簡潔に解説をする。
   「文章講義」散文の名文を取り上げた「美術的文章」
             収録作品「伊勢物語東下りの九段」〜「淺茅が宿」
 四、芭蕉七部集と幸田露伴
   名句の解釈と露伴ならではの鑑賞力が発揮されている。
    二十年以上に及ぶ執筆のうえ昭和二十三年に完成
   文学的な集約と伝達を実現しているだけではなく創造的な評論である。

 

日本文学概論 第十三回 高浜虚子 近代俳句の確立

十三、高浜虚子 近代俳句の確立
 一、高浜虚子について
1874年 松山市生まれ 松山出身の俳人種田山頭火正岡子規など
 「ホトトギス」を創刊。 俳句以外に写生文や小説も掲載
掲載された小説 「我が輩は猫である」、「坊っちゃん」、「野菊の墓」など
 写生文とは 客観的な写生の方法で、人情を超えた俳句的な趣味を描こう
 とした。
  子規が提唱し、虚子が完成させた。 代表作「鶏頭」
  散文だけで寸分を超えた文章世界を作ろうとした。
 子規 弟子 伊東左千夫---斉藤茂吉、島木赤彦 歌誌「アララギ
二、虚子の文学観
  「虚子俳話」 朝日新聞に連載された俳話
虚子の俳句観・俳句論が書かれている。新聞連載ということで大変
わかりやすい文体で書かれている、多彩な観点から俳句を論じる。
虚子の理念
 「花鳥諷詠」 自然だけでなく人間社会における出来事を無心に
客観的に詠む
 「有季定型」 俳句には季語と音律が必要という主張
 「新歳時記」を出版した。これは太陽暦に変ったため以降も俳人
  愛用された。
 歳記の変遷
  北村季吟 「増山井」」
曲亭馬琴 「俳諧歳時記」
藍亭青藍 (らんていせいらん) 「俳諧歳時記栞草」
福羽美静 (ふくは よししず) {歌題歳時表」太陰暦太陽暦の対比 
中谷無涯 「新修歳時記」

 虚子は「吟行」という俳句会を始めた。
「歌枕探訪」という文学伝統と遠く結びついている。
三、近代俳句の展開力
ははきぎに影というみのありにけり --- 源氏物語 の影響
大いなるものが過ぎゆく野分かな   芭蕉
        虹立ちて忽ち君の在る如し  弟子 森田愛子に贈った句。
海外での俳句の紹介
 チェウバレン 英訳、ディヴレー 仏語
   短さ故と韻をふんでいないことで評価は低かった
クシュー 仏人 三行表記の小さな絵画として紹介し評価を高めた
虚子はパリで俳句について講演したが季語が必要であるという理解は
聴衆には得がたかった。
以上

日本文学概論 第十四回 永井荷風と谷崎潤一郎 文体の創造

十四、永井荷風谷崎潤一郎 文体の創造
一、永井荷風
 明治末期 自然主義文学 島崎藤村、詩人 「若菜集」 --破戒
             田山花袋 桂園派 詩人 ---蒲団
人間や社会の姿をありのまま描く。
徳田秋声正宗白鳥近松秋江 → 私小説 古典からの乖離
大正初期 反自然主義 白樺派 荷風と谷崎、耽美派
荷風と谷崎の交流 「三田文学」谷崎は荷風を先輩・恩人として敬愛した。
 二、荷風と西欧
 明治三十六年から5年間フランスと米国に滞在した。
 明治四十一年 荷風はパリで上田敏と邂逅する。
 同年 帰国後 慶応大学教授 雑誌「三田文学」を創刊。鴎外の作品も掲載。
 大正二年 翻訳詩集「珊瑚集」上梓 フランス詩人十三人。ボードレール
    サマンなど三十八章を収める。
     古典の語彙を露骨には使用しないで、しかし古典文法に立脚した文語体
で訳した。
荷風は古典的にして古典的でない。 江戸への回帰。
三、麻布雑記の世界
大正十三年発刊 小説・随筆集。季節感に満ちたタイトル。
 「雨蕭蕭」、「花火」、「雪解」、「春雨の夜」など
  「隠居のこごと」「梅雨晴」→鴎外の史伝を書いている。
 「下谷叢話」 鴎外に倣って書いた伝記。
四、谷崎潤一郎の世界
 「文章読本」→「源氏物語」の現代語訳に取り組むにあたっての文章への
思索を書いた。文語体も口語体も区別しない。
古典の文語文の精神に立ち帰って、口語文を書く。それが口語文を
           窯変させることになる。
源氏物語をどう活かしたか
 昭和十四年「潤一郎訳源氏物語」」
 昭和二十六年〜二十九年 「「潤一郎新訳源氏物語
    昭和三十九年〜四十年 「潤一郎新々訳源氏物語
代表作「細雪」が源氏物語を現代世界に転生させた点。
    関屋の巻 あざやかに衣装をまとい、注目を浴びる箇所。
 文体の放つ香りを現代小説で再現している。
小説「夢の浮橋」」
京都の屋敷「せんかん亭」をモデルとして、光源氏藤壺
 愛のタブーの香りを現代に復活させた。
義理の母と息子の愛。
人間の愛の真実を「秘密」という沈黙によって雄弁に語らせる物語の方法で現代に復活した。